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インタビュー|SHELLYさん “自分の炎”を守ってくれる。そういう人を周りにたくさん作って、自分らしく生きよう!

テレビの情報番組やバラエティ番組で活躍中のSHELLYさん。いつも明るく、自分の思いを周囲に伝えるコミュニケーション能力は抜群!そんな印象が強いですが、海外をルーツにもつことで日本の文化に馴染めず、幼少期は自分の気持ちに蓋をしていたとか。両親の支えの大きさ、自己肯定感をもつことの大切さ、そして、3人の娘さんの子育てで大事にしていることを伺いました。

小4から日本の公立小へ
漢字を読めずバカにされ……

日本で生まれ、2歳からはアメリカのイリノイ州で過ごした。「この時期に母が意識的に日本語で話しかけてくれたので、私はバイリンガルになれました。このことに感謝しているので、今、私は娘たちと英語で話しています」

―――SHELLYさんは日本で生まれ、2歳からアメリカのイリノ イ州で過ごし、6歳からは横浜市で育ったとか。

SHELLYさん(以下、SHELLY) 父が海軍勤務だったので、7歳からは、当時、横浜の根岸にあった基地内の学校に通いました。いろいろな人種がいるのが当たり前の環境で、とても楽しかったです。でも、小学4年生以降は状況が変わりました。父が退役したので日本の公立小に移ったんです。それからは大変でした。

―――どのような苦労を?

SHELLY まず衝撃を受けたのは、公立小に通い始めた頃、授業中に先生の「わかる人いますか?」という問いに対して、私は「はい!」と元気よく手を上げたんです。そうしたら、周りから笑われて。それまで通っていた学校では、答えがわからなくても、みんなが「はいはい!」と手を上げる雰囲気だったし、間違った答えを言っても、それに対して笑いなんて起きなかった。文化が違いすぎて戸惑いました。

日本での小学生時代は文化の違いに戸惑った。

―――ほかにはどのような経験を?

SHELLY 母が日本人なので、私は日本語を話せます。でも読み書きは苦手で、当時は平仮名とカタカナしか習得できておらず、漢字をなかなか使えませんで した。このことを、周りは「何でそんなにできないの?」と思っていたみたいで、間違った読み方をして笑われたりしました。でもそれって、すごくおかしなことだなと思います。だって、人は、どういう環境で育つかによって、得手不得手に違いが出るのは当たり前。だから、私は、日本でずっと暮らしてきた人が間違った英語を使ったとしても、絶対に笑ったりなんかしません。こういうとき に、悪気がなくても笑う風潮、もうやめませんか?と思います。

―――日本の小学校への違和感はどうクリアしていったのでしょう。

SHELLY 結局、解決はできなかったですね。中学に行っても周囲に馴染めず、いじめも受けました。ただ、学校には行き続けましたよ。私の両親の教育がストロングスタイルで、『負けんな』という考えだったことにも後押しされました。朝、学校に行きたくない私に対して、母は体温計を持って来て、「はい平熱です。行ってらっしゃーい」という感じ(笑)。今の時代には合わないやり方だろうけど、そのおかげで強くなりましたね。母の愛情は感じていました。

学費のため中古車解体のバイトも
ビジネスの勉強をしたかった

―――お母様からのお言葉で、印象に残っているものはありますか?

SHELLY 直接言われたわけではないですが、私が中学でトラブルに遭うたびに母は先生に呼び出されていました。そのなかで、母が先生に言った言葉はよく覚えています。「うちの娘にも問題があるかもしれないけど、嘘はつかない子なので」と、はっきり言ってくれたんです。私を信じてくれているのだなと、嬉しかったですね。

―――中学2年生になると、スカウトを機にモデルのアルバイトを始められます。このとき芸能界入りはすでに目指していたのですか?

SHELLY 全然!モデルのバイトは美味しいおやつが出てくるし(笑)、めちゃくちゃ楽しかったからやっていただけ。そのまま モデルとして一人前になろうとか芸能界に入ろうなんてまったく思っていなくて、将来はアメリカの大学に行きたいと思っていました。我が家は、「大学の学費は自分で貯めるように」と教育されていたので、バイト代には一切手を付けず全部貯めていました。

―――大学では何を専攻しようと?

SHELLY ビジネスの勉強をしたいと思っていました。私が小5のときに、父が横浜の元町にアメリカンバーをオープンして、そのお店で高校時代にバイトをしていたこともあって、父の店を継ぎたいと考えていたんです。ところが、高校を卒業して、大学資金を本格的に貯めるぞと思った途端に、モデルの仕事がパタッと来なくなって……。それからは父のお店で働くことに加え、中古車解体のバイトもやって、21歳のときに資金をようやく貯めることができました。

大の仲良しの、ふたりの姉と。

―――それで、いよいよ大学へ。

SHELLY いや、それが、そのタイミングでテレビの仕事が入ってきて。人とのご縁やチャンスに恵まれてほかの仕事が次々と決まっていったんです。それで、芸能の仕事に本腰を入れてみたいと父に伝えたところ、父はこう言ってくれました。「失敗しても帰ってくるところはある。俺の手は大きいんだ」と。落ちてきても受け止めてあげるという意味では日本の公立小に通い始めてから、人にひたすら適応する術を身に付けてしまったんです。いじめられないために、みんなに合わせることを必死でやっていた。それって、自分の炎を吹き消したということですよね。当時の私は、自分の炎を消すほうが生きやすかったので。自分らしさは社会人になってから取り戻せましたが、自分の土台をだいたい構築できたと思えるようになったのは、子どもを産んだあと。30代半ばを過ぎてからのことです。

親は子どもの絶対的な味方でいよう。家が安全なら大丈夫!

―――ここ数年は、ご自身の思いをYouTubeなどのSNSで積極的に発信なさっていますね。

SHELLY 以前から世の中に伝えたいことはいろいろとあったのですが、まずは自分のキャリアを積むほうが大事と思っていましたし、発信するほどの自信をもち合わせていなかったんです。ただ、娘たちが生まれて以降、社会に対して「それってどうなの?」と思うことが増えてきた背景もあり、今はYouTube『SHELLYのお風呂場』のチャンネルで性教育の正しい知識を発信しています。また、ジェンダーや多様性の問題改善にも取り組んでいます。将来、娘たちに「昔はそんなだったの?同性婚が認められていない時代があったの?」と言われることを目標に発信を続けていきたいです。

近年は性教育に対する発信も。23年5月には、性犯罪の成立要件を見直す刑法改正案の審議に参加するため、衆議院法務委員会に参考人として出席。

―――最後に。読者の皆さんへメッセージをお願いします。

SHELLY 今までと違う環境で生活すると、物事がスムーズに運ばないこともあると思いますが、家が安全で安心できる場所であれば大丈夫。そして、親御さんはお子さんの絶対的な味方でいてほしいです。また、お子さんに学校以外の社会を作ってあげることも大事。思春期のお子さんは親に素直に甘えられない場合もあると思うので、同じ立場の子ども同士のサークルのようなものを見つけて、気持ちがわかり合える人と話せる環境を整えるのもいいかもしれません。いずれにしても、日本以外の社会に身を置いて視野が広がることは、それだけで財産。そのことは忘れずにいて下さい。

SHELLYさんの一問一答×10

❶好きな言葉は?
抗菌加工。音の響きが好き

❷嫌いな言葉は?
陰湿

❸どんなときにウキウキする?
用事が突然キャンセルになり、時間ができたとき(笑)

❹どんなときにげんなりする?
用事を忘れていたとき

❺好きな食べ物は?
お寿司と焼肉

❻嫌いな食べ物は?
辛いもの

❼朝起きていつもすることは?
子どもたちと、30分ほどゆっくり過ごす

❽寝る前にいつもすることは?
時々お酒を飲む。白ワインか焼酎が好み

❾マイブームは?
酵素を取る

❿生まれ変わったら何になりたい?

プロフィール

シェリー

SHELLY
1984年、神奈川県横浜市生まれ。アメリカ人の父と日本人の母のもと、2歳からイリノイ州で過ごし、6歳からは横浜市で育つ。モデルとして活動後、情報番組のキャスターや司会、バラエティ番組への出演など、多岐にわたり活躍。現在は、YouTubeで性教育チャンネル『SHELLYのお風呂場』を配信中。そのほか、ジェンダーや多様性の問題改善に向けても積極的な発信を行っている。『ヒルナンデス!』(日本テレビ系)『サスティな!~こんなとこにもSDGs~』(フジテレビ系)などのレギュラー番組も。

文・編集/『帰国便利帳』編集部、田中亜希
撮影/小川拓洋
※2024年6月にインタビュー

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