ゴールデングローブ賞受賞やWBCで日本代表を務めるなど、日本プロ野球界で大人気を得て尚、メジャーリーグでも明るい人柄で注目を浴びた川﨑宗則さん。42歳になった今も現役でプレーし、解説者としても多くの人を魅了しています。そんな川﨑さんが大事にしているのは「自分が楽しむこと」。海外で前向きに暮らすコツや親としての気持ちなど、元気になれる話がたっぷりです!
中学時代は部員の力だけでベスト4。高校はバンド三昧で…
―――川﨑さんは、ご両親からどんな教育を受けて育ちましたか?
川﨑宗則さん(以下、川﨑) 自分が幼い頃は、父と母は川﨑電気工事という会社を立ち上げたばかりで忙しくしていたんです。いつも仕事をしていて、家にいるときは、あれこれ言われることはなく優しかったですね。中学生になると、仕事を手伝ってお駄賃をもらうこともありました。両親が忙しい分、僕のお世話をしてくれたのは7歳上の姉と5歳上の兄。このふたりは厳しかったです(笑)。
―――野球もお兄様に教わったとか。
川崎 そうですね。兄が野球をやっていたので、僕は小学1年生の頃から、家で兄と練習をしていました。なので、4年生のときにスポーツ少年団に入ったときは、早い段階で試合に出られて嬉しかったです。
―――中学校に進学すると、やはり 野球部で活躍なさるのですよね?
川崎 いや、実は違うことをしたくてバスケ部を希望したんですけど、僕が野球を得意だと知っている親友に説得されて、野球部に入部しました。そうしたら、そこで有意義な時間を過ごせて。顧問の先生が田植えで忙しいので(笑)、部員だけでミーティングをして練習内容を決めて、結果的には県大会でベスト4を勝ち取ったんです。
―――中学生の力だけでベスト4ですか。それはすごいです!
川崎 ありがとうございます。でも、中学生って、同じ立場に立てば似たことができると思いますよ。大人が思っているより底力をもっていますから。ただ、指導者がいると、空気を読んでそこに合う動きをしてしまうんですよね。環境次第では思わぬ力を発揮できるのに、もったいないと思います。
―――中学卒業後は、スポーツ推薦で高校へ入学したのですよね。
川崎 はい、そうです。ところが……、入学後すぐにバンドを組んだらベースを弾くのが楽しくなっちゃって。野球部の活動は仮病でよく休むように(笑)。1年生のときの練習は神社で走らされるぐらいだったので、休んでも大丈夫だろうと思ったんです。そうしたら、学校の近くの駅前でライブをやったのがよくなかったみたいで、5月になると監督にバレて叱られました。ただ、「神社を走るだけなのはちょっと……」とこちらの気持ちを伝えたところ、プレーを見てもらえて。何だ、できるじゃないかということで、その年の夏にはレギュラーとして試合に出してもらえました。
プロ野球からまさかの4位指名 周りは大喜び。自分は不安で…
―――それからは、野球に一所懸命取り組んだのですか?
川崎 はい(笑)! 中学までは軟式野球だったので、高校から始めた硬式野球がおもしろくて、ボールの跳ね方やバッドへの当て方などを本やビデオで研究して、すっかりハマりました。そして卒業後は、硬式野球を専門的に学ぶために大学に行って、そのうえでプロテストを受けてプロ野球選手になりたいと思ったんです。この目標に家族は賛成で、両親は「上のふたりを大学に行かせられなかったから、おまえはぜひ」と。母は大学資金を貯めるために、近くのお肉屋さんでパートを始めてくれました。そしたらですよ、思わぬことに、ダイエーホークス(現 福岡ソフトバンクホークス)からドラフト4位の指名を受けたんです。
―――まさかの展開だった、と?
川崎 そうですよ。甲子園にも行けていなかったのでドラフトで指名されるなんて誰も思っていなくて。高1の僕にバンドを辞めろと言った監督は、泣きながら僕の頭を掴んで喜んでいました(笑)。近所の人は家に集まってきて、宴が始まるし。でも僕は不安でしたね。はたしてプロの世界でやっていけるのか……? と。
―――プロ入り後は順調でしたか?
川崎 いえ、まったく。周りには、強豪高出身の同期や技術が上手すぎる先輩が大勢いて力の差を感じたし、それまで独学で野球をやっていたので指導されることに慣れていなくて。フォームを指摘されて、修正してもダメと言われて混乱しました。1月に選手寮に入って2月の時点ではあきらめていましたね。父に電話して「1年後にはクビになると思う。そしたら川﨑電気工事で働く」と伝えたら、「わかった。ありがとう」と。父は跡取りが欲しかったんです(笑)。
日本の球界で地位を獲得後新しい舞台、メジャーリーグへ
―――入団時は不安だったとはいえ、その後は大躍進なさいます。ご自身をどう高めていったのですか?
川崎 まずは努力を一切やめて、ごはんをたくさん食べたり、お風呂にゆっくり入ったり。寮生活を満喫しました。好きなことをめいっぱい楽しもうと決めたんです。なので、もともと興味のあった「どうすれば硬式ボールで上手くプレーできるか?」という研究には没頭しましたよ。そしたら、その過程でコーチのアドバイスを素直に聞いて練習していたら、3 カ月後ぐらいに、こういうことか! と少しずつわかり始めて。今まで頭の中でバラバラに散らばっていたコツがどんどんまとまってくるような、そんな感覚がありました。最初からいろいろできたわけではないんです。自分自身が、自分を一番愛する人になって、好きなことだけをやろうと腹をくくった結果が今につながっています。
―――首位打者やゴールデングラブ賞受賞、WBCやオリンピックで日本代表に選出されるなど、日本プロ野球界になくてはならない存在に上り詰めたのち、アメリカメジャーリーグへの挑戦を発表なさいました。2012年にシアトル・マリナーズに移籍された際の背景を教えて下さい。
川崎 自分の知らないステージで、野球をやってみたいと思ったんです。当時のマリナーズには、僕が「世界一野球が上手い」と思っているイチローさんが在籍していました。イチローさんの近くで学びたい気持ちも強かったですね。日本のプロ野球にいたほうが高給だし、家族や周りからは初めは行くのを止められましたけどね……。
―――アメリカでプレーをして感じた、日本の野球との違いは?
川崎 日本は、勝敗を少し気にしすぎかなと思います。アメリカでは、「誰でもミスをすることはある。負けるのも仕事」という考え方。野球は自分のすべてではなく人生の一部と捉えていて、どんなときも堂々としている選手が多いです。
―――メジャー時代は、通訳を付けずに、自己流の英語を話す姿も注目を浴びましたね。
川崎 「通訳なしで挑戦した」と言えばかっこいいのでしょうけど、そうではなくて。マイナー契約、つまり2軍契約なので通訳を付けられなかったんです。ストレスで実は円形脱毛症にもなりましたが、自己流は結果的に功を奏しました。
―――英語は独学だったのですか?
川崎 英会話教室に、少しの期間は妻と通いましたよ。でもね、チームメイトは、教室で習うような英語は使わないんです。「How are you?」なんて上品な言葉は身長190センチもある体育会系のゴツい男たちは使わない。「What’s up?」の略の「ワッツァ?」すら言わずに、ただの「ツァ?」ですよ(笑)。だから、みんなとご飯を食べたりお酒を飲む席によく顔を出して、ジャパニーズ英語で接していました。100点じゃなく20点の英語を話せれば十分。「Excuse me?」が言えれば10点。「Are you?」を加えたら20点。あとの70点は周りがどうにかしてくれます。「人に迷惑をかけちゃいけない」と思いがちだけど、相手は助けてくれるんです。
まずは、目の前の小さな幸せを見つけよう!
―――川﨑さんには、3人のお子さんがいらっしゃいます。教育で大切にしていることを教えて下さい。
川崎 干渉しない、ということでしょうか。好きなことを見つけて、生きていく力を身に付けてほしいと思いますけど、それ以外には何も。子どもの脳は柔らかくて純粋で教わることばかり。僕は君たちのパパ。それだけで充分です。
―――最後に、海外に住む読者の方々へメッセージをお願いします。
川崎 僕は、自分の好奇心をもとにアメリカ、カナダ、台中で選手生活を送り、外から日本を見るという貴重な時間を過ごせました。海外にいると、ときには孤独感を抱くかもしれませんが、それは日本にいても同じこと。人は、必要以上に過去を振り返ったり未来を考えるから不安になるんです。そんなことより、目の前の小さな幸せを見つけてご機嫌でいるほうが大事。そうすれば、周りにも同じような周波数の人が集まってきますよ。まずは自分の好きなことを思いっきり楽しむ。そこから始めましょう!
川崎宗則さんの一問一答×10
❶好きな言葉は?
チェスト!(鹿児島弁で「それ行け」の意)
❷嫌いな言葉は?
なし!
❸どんなときにウキウキする?
毎日ウキウキ
❹どんなときにげんなりする?
毎日げんなり
❺好きな食べ物は?
トマト
❻嫌いな食べ物は?
なし!!
❼朝起きていつもすることは?
白湯を飲む
❽寝る前にいつもすることは?
水素を吸う(30 分ぐらい)
❾マイブームは?
水素を吸う
❿生まれ変わったら何になりたい?
川﨑宗則
プロフィール
かわさき むねのり
1981年6月3日生まれ。鹿児島県姶良(あいら)市出身。鹿児島工業高等学校を卒業後、福岡ダイエーホークスに入団。福岡ソフトバンクホークスを経て、2012年にはメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍し、その後、トロント・ブルージェイズ、シカゴ・カブスで活躍。2017年に福岡ソフトバンクホークスに復帰したのち、2019年からは台中の味全ドラゴンズでコーチ兼選手として活動。2020年には栃木ゴールデンブレーブスに拠点を移し、現在はキャスター業や講演活動なども行う。近著に『「あきらめる」から前に進める』(KADOKAWA)がある。
文・編集/『帰国便利帳』編集部、田中亜希
撮影/深山徳幸 インタビュー撮影/Eau de BALL PARKにて
※2023年10月にインタビュー
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