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インタビュー|古坂大魔王さん 準備をして、挑戦して。失敗しても感謝と愛があれば大丈夫!

ピコ太郎のプロデュースで世界的ヒットを飛ばし、約20カ国を訪問した経験をもつ古坂大魔王さん。勉強漬けだったという幼少期の経験を糧に、楽しみながらも決してあきらめずに歩み進めてきた、これまでの話。そして、二児の父としての、子育てに対する思いを伺いました。

母の教えで1日6時間勉強 100点を取ればステーキ

―――古坂さんは幼少時代、どんなお子さんだったのですか?

古坂大魔王さん(以下、古坂) 青森県で、船の溶接の仕事をしている父と、漁師の家に生まれた母に育てられました。父はすごく物静かな人で、僕は今まで生きてきたなかで、父と5分も話をしていないんじゃないかと思うほど(笑)。一方の母はタイプがまったく違って、かなり喋るし、教育熱心。僕と兄、そして弟を公務員にすることが目標で、僕たちは「勉強しろ」「勝て」と言われながら育ちました。

―――お母様は、なぜそんなに教育熱心だったのでしょうか。

古坂 漁師の家に生まれて、収入が不安定になりがちな生活の大変さを知っていたからだと思います。なので、一生安定して暮らせる公務員は理想だと。そして僕らは第二次ベビーブーム生まれで、人口が多い世代なので、勉強しないと生き残れないとも考えていたようです。「一番になれ。一番になって、下の人ば引っ張れる人間になれ」と、よく言われました。

母の教えで勉強漬けだった小学生時代。しかし、本人はお笑いとプロレスに夢中。プロレス興行のため青森を訪れたアントニオ猪木氏に弟子入りを直談判したことも。「『弟子にして下さい!』と言ったら、いきなり背中を叩かれて。『痛いか!?』と聞かれたので『痛い……』と答えたら『じゃあ、やめろ』と言われました(笑)」

―――家ではどれぐらい勉強をしていたのですか?

古坂 塾には通わず、家で問題集をひたすら解いていました。通っていた公立中学には、1学年に350人ぐらいの生徒がいて、そのなかでテストの成績がトップ10に入ると褒められましたね。中2からは、1日6時間は勉強するようにと母に言われて、帰宅後5時から9時まで勉強。そして翌朝に2時間勉強。それで100点を取ったらステーキを食べさせてくれました。98点ではダメ。ステーキはなしです(笑)。

小6のとき教室でトークショー 東京の番組で、コントで優勝も

―――勉強漬けだった少年がお笑いの道へ。どういう経緯でそうなったのか、気になります。

古坂 小学校の時から、お笑いの番組が大好きでして。ビートたけしさん、そしてとんねるずのお二人に憧れて、5、6年生の頃は学校で独自にトークショーをしていました。口調を真似して、昼休みに教室で喋るんです。内容は、家でお母さんに怒られた話とか。そうしたら、これがもう、ウケてウケて。たくさんの人たちが聞きにくるから、チケットを売ればいいかもと思って売ったら売れちゃって、学校で問題になりました(笑)。それから、小6のときはコントも作って、友だちと東京のテレビ番組に出て優勝しました。それが話題になって、地元の朝のニュース番組に呼ばれたこともあります。

お笑いの道に進みたいと言うと、不安定なことが大嫌いな母には、
「それで食えるわけねーべな」と言われました

―――子どもの頃からお笑いの才能を開花させていたのですね!それで、お笑いの世界に進むことになるわけですが、お母様の反応はどうでしたか?

古坂 もちろん大反対です。不安定なことが大嫌いですから。「なーんで、そんな、一番不安定なところに行くんだ?食えるわけねーべな」と。それからは毎晩、母の体を全身マッサージしました。ムニャムニャ……と眠りに落ちそうになるときに、「東京に行っていい?」と聞いていました(笑)。

―――その後実際に上京して、コンビでTV出演も果たされます。このときの反応はいかがでしょうか?

古坂 『ボキャブラ天国』という番組で多くの芸人が人気を得て、僕たちも出演していました。ただ、青森ではその番組が放送されていなかったんです。ですから母は半信半疑だったようですね。その後しばらく経って、地元で行われたイベントに出たところ、8千人ぐらいの人が集まってくれて。母はその様子を見て、ようやく少しほっとしたようでした。

ソロ活動を始めた頃

約20カ国を訪問したピコ太郎 挨拶と感謝は現地の言葉で

―――2016年以降は、古坂さんは、ご自身がプロデュースなさったピコ太郎の動画『ペンパイナッポーアッポーペン』の大ヒットにより、世界中から注目を浴びます。当時の心境を教えてください。

古坂 ピコ太郎のことを、まずは韓国のアーティストBTSやBLACKPINKが話題にしてくれて、それだけでミラクルだと思っていたんです。ところが、ジャスティン・ビーバーまでツイッターで紹介してくれて。あのときはですね、もう、頭のなかが1回ショートしました。とんでもないことが起きてしまいました、と。ツイートを確認したあと、パソコンをいったん閉じました(笑)。

―――その後、世界各国や地域を訪問なさるように。

古坂 呼んでいただいた約20カ国に行きました。現地の看板番組に出て、大統領やトップスターに会えて、とんでもない経験でしたね。あ、実際に会ったのは僕とは別人の、僕にそっくりなピコ太郎ですけどね(笑)。ピコ太郎が各国に行くときに実践したのは、「今日は楽しかったです」「お会いできて嬉しいです」「愛しています」という三つを現地の言葉で言えるようにしておくこと。招待してもらっているわけですから。感謝と愛は最低限伝えないと。

お母様と。「母は本当に教育熱心で、そのおかげで、兄の今の職業は銀行の支店長。弟は大学教授です。僕の仕事のことも今は喜んでくれています。ただ、いまだに『飯食えてるのか?』と聞いてきたり、ピコ太郎がトランプ大統領に会えたときも驚かず『トランプ大統領に会って金はもらえんのか?』と聞いてきました(笑)」

―――こちらから心を開くことが大事だと。

古坂 そうです。訪問前には、その国・地域の言語だけでなく、成り立ちや宗教、今の情勢をできる限り調べておきます。それを知ると知らないとでは現地での笑いの量が違いますし。こうやって準備を重ねるのは、自分が極度の怖がりだからですけど、ピコ太郎みたいにいろいろ調べたうえで自分をキャラクター化すると、自然と緊張せずにその場を楽しむことができます。「片言の英語しか話せないけれど、いつも笑顔で声が大きい」というピコ太郎のキャラクターは、すごくラク。あとは自分の発言がウケなくても、いちいち傷つかないことも大切で、笑いのツボがその土地に合わなかったんだろうなと思うようにしたり。55点ぐらいで良しとします(笑)。

子育てで大事にしているのは、娘たちを信頼すること

母の厳しさの根底には子どもへの愛と絶対的信頼が確実にありました

―――古坂さんは二人の娘さんの父親でもいらっしゃいます。夫婦共通の育児の方針はありますか?

古坂 娘たちを信頼することを一番大事にしています。僕も妻も、自分で自分の生き方を選択してきたので、子どもに無理に何かをさせることはしたくないんです。やりたいことにはどんどん挑戦させて、こちらは全力で応援する。この考えは母の影響でもあります。僕の母は厳しかったですけど、息子たちへの信頼は半端ではなかった。たとえば僕がヤンキーと喧嘩をしても、僕は不良じゃないということもあって、「あの子は理由もなしに殴ることはしないはずだ」と。それから、こいつは勉強をすれば将来絶対に使える人間になるとも思ってくれていました。愛を根底とした信頼ですよね。

―――最後に、海外で生活しているお子さん、そして子育て中の親御さんにひと言お願いします。

古坂 どの国や地域であれ、今、海外で暮らしている人は、相当希少価値のある経験をしています。現地では大変なこともあると思いますが、感謝と愛があれば大丈夫!限られたトップランナーなのだという意識をもって、ぜひ自信をもって過ごしてほしいです。

古坂大魔王さんの一問一答×10

❶好きな言葉は?
勝つ

❷嫌いな言葉は?
勝たない

❸どんなときにウキウキする?
ウケるということが確定したとき

❹どんなときにげんなりする?
身近な人が悲しんだとき

❺好きな食べ物は?
納豆

❻嫌いな食べ物は?
セロリ

❼朝起きていつもすることは?
次女をリビングに連れて行ってパンを食べさせる

❽寝る前にいつもすることは?
寝室にプロジェクターを設置して、家族みんなでアニメ「パウ・パトロール」を見る

❾マイブームは?
アイドルのフィロソフィーダンスをチェックする。素晴らしいです。

❿生まれ変わったら何になりたい?
美人になりたいと思います。

プロフィール

古坂大魔王(こさかだいまおう)さん

1973年、青森県生まれ。高校を卒業後上京し、お笑いの道へ。底抜けAIR-LINEとして活動後、自身プロデュースのピコ太郎の動画『ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)』が世界的にヒット。現在は、「間違ってもいい!もっと気軽に英語をつかいましょう」をテーマに、ピコ太郎とその妻のタミさんのパペットが童謡を日本語や英語で歌唱したり、楽しいトークを繰り広げる『ピコスタキッズ』を配信中。1歳と4歳の女児の父。

文・編集/『帰国便利帳』編集部 田中亜希
撮影/拓洋拓洋

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