世界に挑み続けた人に、その道のりを伺うべくインタビューを実施。
周りに感謝しながら前向きに生きる勇気を吉田沙保里さんからいただきました。
5歳のときに金メダルに憧れて
――――吉田さんはレスリングで数々の偉業を成し遂げられました。幼少期から向上心は強かったのですか?
吉田沙保里さん(以下、吉田) 父がレスリングの指導者で、まずはふたりの兄にレスリングを教えていたので、私も3歳の頃から始めました。その頃は遊び感覚でしたね。でも、5歳のときに初めて出場した試合で負けて、私に勝った男の子が首から金メダルを下げている姿を見て気持ちは変わりました。うらやましくて「あれが欲しい!」と言ったところ、父が「あれはコンビニやスーパーには売っていないんだよ。練習して勝った人しかもらえないんだよ」と教えてくれて。それからは、メダルが欲しいがために練習を頑張りました。
――――練習がつらくて「辞めたい」と思うことはなかったのでしょうか?
吉田 それはもう、子どもの頃は何回もありましたよ。大晦日とお正月以外は毎日夜7時から練習で。門限は夕方5時。友だちと遊びたいときもあるし調子が悪い日もあります。ただ、「なんでレスリングをやっているんだろう」と嫌になっても、父がかなり厳しかったので「辞めたい」なんて口が裂けても言えなくて(笑)。母は、どんなときも優しかったです。私が練習がきつくて泣いていると、「おいで」と手招きして膝の上でギュッと抱っこしてくれるんです。そのたびに涙は吹き飛びました。
父の言うことは“絶対”で、怖くて仕方なかったですけど、こちらが頑張ったあとはかならず褒めてくれる愛情深い人でした。それと、頑張っていると、もちろんいいこともありました。メダルを取るたびに全校集会で褒められたり、友だちが「すごいね!」と言ってくれたり。
――――自主的にレスリングに取り組み始めたのはいつ頃なのでしょう。
吉田 中学1年生のときに、フランスで行われた国際大会に出場した頃からですね。ユニフォームや靴など身につけるものすべてに日の丸のマークと「JAPAN」という文字が入っていて、それを着ている自分に対して「私は日本の代表なんだな。何か、かっこいい!」と思ったんです。
さらに、翌年にアトランタオリンピックが行われて、「やわらちゃん」の通称で知られる柔道選手の谷亮子さんをテレビで見た瞬間、目標は明確になりました。小さな体で対戦相手を投げ飛ばしている姿がかっこよくて、「私もやわらちゃんみたいにオリンピックで活躍したい。金メダルを取りたい!」と強く思ったんです。それまでの私には、レスリングを「やらされている」感覚がまだあったのですが、やわらちゃんに憧れてからは、オリンピックに出るためにはどうすればいいかを考えるようになりました。
左手首を骨折!片手で戦い優勝
――――数多く挑んだ試合のなかで、過酷だったものを教えて下さい。
吉田 強烈に覚えているのは、中学3年生のときに左手首を脱臼骨折した際のこと。全国大会の1カ月前に、練習中に骨折して、手首の骨に3本のボルトを入れる手術を受けました。左手はしばらく動かせない状態です。ところが、父は試合に出ろと言うんです。しかも、「ボルトが突き出たままだと試合のときに危ないから、出っ張っている部分を病院で切ってもらってこい」と(笑)。それはさすがに無茶でしょうと思いながら病院に行くと、お医者さんが「何を言っているんですか! 将来、片手しか使えなくなるかもしれませんよ!」とおっしゃって。でも、父に怒られるほうが怖かったので、ボルトを切ってもらいました。それでテーピングを巻いて試合に出て、右手だけで戦って優勝しました。
――――片手で優勝ですか⁉
吉田 あはは! このときの試合は、実は対戦相手も盲腸を薬で散らして出場していて、“盲腸VS骨折”で骨折が勝ったという(笑)。父の教えである「攻める」をまさに実践しましたね。父は常に「タックルを制する者は世界を制す」と言っていて、攻撃し続けることを良しとしていて。練習では守って勝っても怒られるだけ。逆に攻めたら負けても褒められました。そうするうち、いつしか攻める姿勢が身に付いていました。
連勝ストップ…… 自分を責める日々
――――目標を達成できた秘訣は、ほかに何かありますか?
吉田 ライバルの存在も大きかったです。2歳年上の山本聖子選手はめちゃくちゃ身体能力が高くて。中学生のときから何度も対戦して、そのたびに負けていました。到底勝てっこないと思っていたのですが、私が大学1年生のときに、「3年後のアテネオリンピックから女子レスリングが正式種目に採用される」ということが発表されて。その瞬間、聖子ちゃんさえ倒すことができれば、夢見てきたオリンピックに出場できるかもしれない! と胸が高鳴りました。
このときから、少食なのに一日五食摂って大好きなお菓子を禁止して、それまで以上に必死で練習して…。そしたら、聖子ちゃんとの試合で少しずつ手応えを感じるようになって、翌年の2002年に行われたジャパンクイーンズカップではついに勝ちました。この人を越えたいという一心で努力を重ねることは、自分を確実に成長させます。
――――そして、念願だった2004年のアテネオリンピックに日本代表として出場して、見事、金メダルを獲得しました。その後、連勝の記録を更新し続けることになったのですよね。
吉田 そうですね。ただ、2008年1月に中国で行われた女子ワールドカップ団体戦で、アメリカのマルシー・バンデュセン選手に敗れて、公式戦の連勝記録は119連勝でストップしました。外国の選手に負けたのは初めてで、しかも団体戦だったので、私のせいで日本が負けた……と自分を責めました。このときの敗北は、レスリング人生のなかで一番ショックだった出来事ですね。
試合後は父に促されて実家に帰り、庭にある道場でレスリングの練習に励む子どもたちの様子をただぼんやりと眺めて過ごしました。そのうちに、思ったんです。私は何をしているんだろう。この子たちの見本にならないといけないのに、いつまでくよくよしているんだろう、と。さらに、母がかけてくれた言葉にもハッとしました。「今まであなたに負けた119人の人も、悔し涙を流したのよ。あなたはただ一回負けただけでしょう。このあとの試合でまた頑張ればいいじゃない」と。そして、同じ年に行われた北京オリンピックでは金メダルを獲得できました。
失敗してもいい楽しんだ者勝ち!
――――落ち込みを引きずらず、なぜそこまで前進できるのでしょう。
吉田 あのときは、「吉田、負ける!」と書かれたスポーツ新聞の一面記事を寝室の壁に貼りました。銅メダルも一緒に飾って、それを見るたびに「こんなに悔しい思いは二度としたくない」と思って頑張ったんです。
それから、全国の多くのかたからの応援のメールやお手紙にも励まされました。私は自分ひとりの力でレスリングをしているわけではない。皆さんの支えがあるから今があるんだということを改めて感じたことも収穫でした。そのうえで、2012年のロンドンオリンピックでも優勝できて、五輪三連覇を果たせたときは最高に幸せでしたね。優勝したときにマットの上で父を肩車して、感情をあまり外に出さない父が涙ぐんで喜んでくれて、これ以上ない親孝行ができたと思っています。
――――2019年にレスリング選手を引退なさってからは、バラエティ番組やコマーシャルなど、活躍の場は多岐にわたりますね。
吉田 今までレスリングしか知らずに生きてきたので、いろいろな世界を見ることができてとても楽しいです。興味があることは、楽しみながら全力で挑戦したい。失敗してもいいかなと。たとえ壁にぶつかってもマイナスには考えませんよ。落ち込んでいる時間がもったいなくて無駄ですから。次はどうすればいいかを常に考えながら、嫌なことがあったら気分転換に好きなことをする! 現役時代からそういう考えなので、今でも気持ちの切り替えは早いです。
――――最後に、海外で暮らしているお子さんたちへメッセージをお願いします。
吉田 英語を喋れる環境で学校生活を送れるなんて、うらやましいです。とはいえ、慣れない環境で不安や不満を感じることもあるでしょうね。でも、一度きりの人生だから何にでも挑戦してほしい。「やりたいことが特にない」という人も、何かしら目標は作れると思うんです。それに向けて少しずつ頑張れば確実に前進できます。人生、楽しんだ者勝ちですよ!
吉田沙保里さんの一問一答×10
❶好きな言葉は?
夢追人
❷嫌いな言葉は?
負ける
❸どんなときにウキウキする?
好きな人と一緒にいるとき(笑)。
❹どんなときにげんなりする?
人に迷惑をかけたとき。
❺好きな食べ物は?
焼き肉、鉄板焼き、おもち。
ポテトチップスやチョコなど、お菓子は何でも。
❻嫌いな食べ物は?
ナス、ピーマン。
酸っぱいものや辛いものなど、子供が嫌いそうな食べ物。
❼朝起きていつもすることは?
愛犬のリリーに「おはよう~」と言う。
❽寝る前にいつもすることは?
リリーに「おやすみ~」と言う。
❾マイブームは?
ギターを弾くこと。最近は、家でジャンジャンと鳴らしながら歌うことも。
❿生まれ変わったらどうなりたい?
すごくかわいい顔で性格もよくて、モテる人になりたい!(笑)
プロフィール
>吉田沙保里(よしだ・さおり)さん
1982年、三重県生まれ。レスリングの指導者である父のもと3歳からレスリングを開始。2004年から4度にわたりオリンピックに出場し、3大会連続で金メダリストに。2012年には「13大会連続世界一」を記録し国民栄誉賞を受章。紫綬褒章は3回受章した。2019年に現役引退。現在は指導者として、また、テレビのバラエティ番組などでも活躍中。
取材・文/『帰国便利帳』編集部、田中亜希 撮影(赤いワンピースの写真)/内田龍 ※2021年春インタビュー
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