幼少期に渡米を経験し、その後、ニューヨークを拠点にマドンナやジャネット・ジャクソンなど世界的なミュージシャンと活動をしてきた音楽プロデューサー・エンジニアの保土田剛さん。日本の音楽シーンに旋風を巻き起こしたロックバンド、REBECCAのボーカルのNOKKOさん。現在は熱海に暮らすご夫妻に、これまでの人生と子育てについてお話を伺いました。
十代での二度の渡米が進む力を与えてくれた
英語を身に付けること以上に
アイデンティティを確立することが
大切だと考えています(保土田剛さん)
―まずは保土田さんの幼少期のお話からお聞かせください。
保土田剛さん(以下、保土田) 僕の父は彫刻家で、単身でアメリカに渡り、創作活動に励んでいたんです。父の作品が認められ、現地で個展を開催できることになったのをきっかけに、家族みんなでワシントンD.C.に移り住みました。
―アメリカでは現地校に通われたとのこと。どのような思い出がありますか?
保土田 妹は当時5歳だったのですんなり英語を習得できましたが、僕は11歳だったので苦労しました。最初の頃は英語がまったくわからず、テストでは0点ばかり。でも、算数だけは式を見れば理解できるので成績は良かったですね。ワシントンD.C.は大使館が多く、いろんな国から子どもたちが集まっていました。彼らと英語でコミュニケーションをとるのは大変でしたが、休み時間に描いていた絵をきっかけに仲良くなることができました。その頃、戦艦や戦闘機が好きでずっとノートに描いていたんですが、それがみんなにウケたんです。
―中学生の頃に一度帰国されていますが、その理由は?
保土田 現地校で中学に進む話もあったのですが、今ならまだ日本の学校でも再びやっていけるだろうという親の判断で、なんと僕一人だけ日本に戻されたんです。それで祖母の家から公立の中学校に通いました。小学校の頃は算数が得意だったのに、日本の中学校の数学は難しくて苦労したのを覚えています。同じ帰国子女という境遇の同級生もおらず、周りの環境に合わせるのが大変でした。その時に自分で何か軸になるものを見つけて前に進んでいくしかないという覚悟ができました。そういう意味では、日本での中学校生活は僕にとって貴重な経験でした。
―音楽に対する興味はいつ頃から湧いてきたのでしょうか?
保土田 アメリカにいた頃はラジオ局がたくさんあって、チャンネルを回すといろんな音楽が聴こえてきました。それに曲に乗せた歌詞だと英語も聞き取りやすく感じられた。それで、洋楽にハマっていきました。しかし、その後に帰国した70年代当時はまだ日本にFMラジオ局が数えるほどしかなく、洋楽の情報も少なかったんです。だから、アメリカで知った音楽を学校の友だちに教えてあげたりしていました。
―高校を卒業してから再び渡米された理由は?
保土田 実はこれもまた親の都合だったんです。その頃、母がシカゴで日本食のレストランをオープンさせまして。当時はまだアメリカで日本食が普及していなかったので結構な冒険ですよね。それで、人手が足りないから手伝いに来るように言われて、しばらくウェイターをやっていたんです。そのうち商売も軌道に乗って、母から“もう好きなことをやっていいよ”と言われた。そこで、大好きだった音楽に関わりたいと思い、シカゴにあるスタジオで働くことになりました。黒人のミュージシャンたちに囲まれながら、電話番や受付をしつつ、仕事のやり方を教えてもらう日々でした。その後、ニューヨークに移住し、再び日本に帰って来るまではずっと海外で活動していました。
ニューヨーク、パリ国境を超えた音楽活動
音楽や芸術以上のものを
子育ては与えてくれます(NOKKOさん)
―NOKKOさんと保土田さんの出会いについて教えてください。
NOKKOさん(以下、NOKKO) REBECCAのアルバムのミックスをニューヨークで行うことになり、スタジオを訪ねた時に初めて顔を合わせました。その後も仕事でニューヨークを訪ねるたびに会うようになったんです。
その後、レベッカが解散してから、ソロ活動を始めたのですが、アメリカでアルバムを1枚作ってもいいという契約があったので、ニューヨークに再び渡り、音楽活動をしながら3年間暮らしました。それが私にとって初めての海外生活でした。日本での芸能活動にちょっと疲れていたこともあり、しばらくゆっくり休んだり、好きなことを勉強してみたいという思いもあったんです。現地では大学がやっている英語学校に通ったりもしましたね。
―大人になってからの初めての海外生活でカルチャーショックなどはありましたか?
NOKKO 向こうでできたイラン人の友だちから“『おしん』のつづきはどうなったんだ?”って聞かれた時は驚きましたね(笑)。イランでは『おしん』がとても人気のドラマらしくて、日本の文化もいろんなところに広まっているんだなと。3年間のニューヨーク生活で視野が大きく広がりましたし、音楽に関しても、アメリカの最先端に触れたことでずいぶん影響を受けました。そのおかげで日本のマーケットに合わせるのが大変でしたけど。アメリカではイケてる音でも、日本だと早すぎて理解されないこともあるんです。大人になっていた私でさえ、そうした文化のギャップに戸惑ったのに、夫のように子どもの頃にそれを経験するのは大変だろうなと思いました。
―アメリカでは音楽の仕事のやり方も日本とは違うのでしょうか?
保土田 僕がニューヨークにいた当時は、まだ録音機器なども日本よりアメリカの方が進んでいました。新しいサウンドがどんどん出てきている時期で、いい環境で仕事ができたと思います。
僕の仕事がニューヨークでも認められたのは、つくりだした“音”が正当に評価されたからだと思っています。『保土田がミックスをするとちゃんとした“音”になる』と。アメリカは、無名であっても仕事の本質をしっかり評価してくれる国なんだと感じました。その一方で、自己主張することの大切さも感じました。アメリカには、“キーキー言わないとオイルを差してもらえない”という言葉があるんです。自分のやりたいことがあるなら、声を上げることが必要なんです。
―お二人は結婚当初からニューヨークで3年暮らした後、パリで生活されたこともあるとか?
保土田 アメリカやイギリスのメジャーシーンにはない音楽を求めて、パリに拠点を移しました。といっても、シャンソンなどがやりたかったわけではありません。現地で仲良くなったアラブ人からは大きな影響を受け、一緒に仕事をするようになりました。アラブの民族音楽って、日本で昔流行ったムード歌謡に少し似ているところがあるんです。そんなどこか懐かしい音に自分がずっとやってきたダンスミュージックを混ぜ合わせるといった試みをおこなっていました。アルジェリア人のフォーデルという歌手をプロデュースしてアルバムがヒットしたのですが、それをきっかけに、ベイルート、エジプトなどで色々なアーティストをプロデュースすることができました。
NOKKO 私はパリでフランス語版の『いなかっぺ大将』がテレビで放送されていたことに衝撃を受けました(笑)。「田舎の良さを知っているフランス人は、田舎者であることを隠さない主人公の姿に共感するのかな?」なんて思ったりして。
永住の地に選んだのは豊かな自然あふれる熱海
―その後、通算3年の海外生活を経て2003年にお二人でニューヨークから日本に帰国されます。きっかけは何だったのでしょうか?
保土田 理由はいくつかありますが、まず「子育てをする」ということを考えたときに、当時のニューヨークのテロ後の状況では治安面で不安が大きかったこと。それに家賃も高いし、保険も高い。そして、日本と海外を行き来するのではなく1つの環境で子育てをしたいという思いもあり、日本に戻ることにしました。仕事の面では、インターネットや音楽機材の進歩によって、場所を選ばずに仕事ができるようになっていたことも理由のひとつです。
NOKKO 二人で一時帰国するたびに、東京の喧騒を逃れて伊豆に遊びに来ていたんです。その時に行きつけだったお寿司屋さんからいい土地が見つかったという話を聞いて、ニューヨークから引き揚げて熱海に移住することに決めました。もともと暖かい土地で子育てをしたかったという希望もありましたし。
―熱海での暮らしはいかがですか?
NOKKO 娘は東京の中学に通っているのですが、東京より熱海の方がいいって言ってくれます。こんなのんびりした生活をしていていいのかな?と思う時もありますけど(笑)。ときおり熱海を出てライブで歌うことが丁度いい刺激になっています。東京も近いので、都会の刺激が欲しければすぐに出かけられますしね。
保土田 僕の仕事に関していえば、今は世界のどことでもインターネットを通じて音源データのやり取りができるので不便さはまったく感じません。それに僕は釣りが大好きなので、海や山に囲まれた環境はとてもありがたい。船で沖にマグロを釣りに行ったり、近くの渓流でフライフィッシングをしたり、釣りライフを満喫しています(笑)。
―お子様は、小学校は別の市にある私立に通われたそうですが、どのような教育方針をお持ちなのでしょうか?
保土田 できるだけ幅広い地域の色々な子どもたちが学ぶ多様性のある学校で学んで欲しかった。でも同時に、日本人としてのアイデンティティをしっかり持ってほしかったので、インターではなく、日本の私立小学校を選びました。
英語については、僕自身、苦労しましたが、仕事を通して上達していきました。ですから娘も、確固たるアイデンティティや日本語という母語を備えた上で、必要に応じて英語を習得していけばいいと思っています。
―最後に読者の方にメッセージをいただけますか?
保土田 子どもの頃に突然アメリカに連れて行かれたことは、僕にとってある意味、苦境でした。しかし、それをチャンスと捉えることが大切だと思います。他の人と違う経験をしたことは、将来、何かを極めたいと思った時に大きな後押しになってくれます。それに、一度、苦境を経験すれば、その後、少しくらい辛いことがあっても乗り越えられる。帰国子女のみなさんには、子どもの頃に海外に出たことがあるからこその強さを身に付けて欲しいと思います。
NOKKO 子育ては私にとって大きな刺激になっています。他の親御さんとのお付き合いもとても大切なもの。子どもという共通項で親同士に一体感が生まれ、国籍や言葉を超えて共感できるんですよね。子どもは、音楽や芸術以上に大きなものを与えてくれる存在だと思っています。
保土田剛さんNOKKOさんご夫妻の一問一答×10
❶好きな言葉は?
保土田 「ヒット」
★音楽でも釣りでも
NOKKO 「幸せ」
★普段からよく言っています
❷嫌いな言葉は?
保土田 「嘘、不誠実」
NOKKO 「あなた変わったね」
★人の思考の自由を奪う言葉です
❸どんなときにウキウキする?
保土田 「釣りに行く時」
NOKKO 「リハーサルの時とライブ本番の時」
❹どんなときにげんなりする?
保土田 「魚が釣れなかった時」
NOKKO 「店員さんの対応が素っ気なかった時」
❺人生でピンチを感じたとき
保土田 「日本からアメリカへと環境が大きく変わった時」
NOKKO 「30歳を超えてからはずっとピンチの連続」
★女性ってある意味そうじゃないですか?
❻人生でチャンスを感じたとき
保土田 「大きな仕事が来た時」
★不安でも引かずに受けます
NOKKO 「曲のアイデアをひらめいた時」
★掃除中でも突然ピアノに向かいます(笑)
❼朝起きていつもすること
保土田 「朝イチで仕事をするのが習慣です」
NOKKO 「ストレッチとご飯の支度」
❽寝る前にいつもすること
保土田 「活字を読む」
★1ページでも読むとよく眠れます
NOKKO 「曲のアイデアを書き留める」
❾マイブームは?
保土田 「バラの栽培」
★音楽のない自然の中にいるのもいいものです
NOKKO 「新しい最新家電を試してみること」
★最近の掃除機ってすごいですよね
❿10年後どうしていたいか
保土田 「今と同じであってほしい」
★子どもは育っていきますが
NOKKO 「好きなことを思い切りやっていたい」
★定年はありませんから
プロフィール
保土田剛さん
1960年生まれ、東京都出身。シカゴでミックスエンジニアとしてのキャリアをスタート。1990年にはマドンナの『VOGUE』のエンジニアリングを務める。その後も、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、坂本龍一、宇多田ヒカルなどの一流アーティストの作品を手がけている。
NOKKOさん
1984年にロックバンド、REBECCAのボーカルとしてデビュー。数々のヒット曲をリリースする。1991年にバンドを解散した後、5枚のソロアルバムを発表。2000年には夫の保土田剛と「NOKKO&GO」を結成。2015年にはREBECCAを再結成するなど、現在も精力的な活動を続ける。
編集/本誌編集部、高須賀哲、撮影/浜田啓子(浜田啓子写真事務所)
※2019年5月インタビュー
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