苦労もしたけど、支えてくれる人たちの優しさが身に染みました
頌栄女子学院中学校 1年生 N・Kさん(13歳)
※2024年5月の取材時
渡航歴
日本 | 0歳~7歳 |
アメリカ・ペンシルベニア州 | 8歳(小3・8月)~12歳(小6・3月)、現地校 |
日本 | 13歳(中1・4月)、私立中 |
いきなり飛び込んだアメリカで日本人のいない現地校に通う
Kさんは父親の仕事の都合で小学3年生から小学6年生までの3年8ヵ月を、アメリカ・ペンシルベニア州のピッツバーグ市で過ごした。同市には日本人学校がなかったため、現地校に通うことになった。小学3年生という成長著しい時期に、いきなり日本とはまったく異なる環境に足を踏み入れた。
「ピッツバーグは、日本人が少なく、現地校でも私の学年に日本人はいませんでした。英語は渡米前に父の会社が用意してくれた講習を少し受けただけで、あとはもう、とにかく飛び込むしかありませんでした」
緊張と不安の中でアメリカ生活がスタートしたが、現地校では周囲のサポートに助けられた。
「始めはみんなが英語で何の話をしているのか全然わかりませんでしたが、同級生たちは気さくに話しかけてくれました。みんなが優しくしてくれていることだけはわかったので、安心できました」
学校では、英語圏以外のバックグラウンドを持つ児童のために、サポート体制を整えていた。
「私のほかにも英語をあまり話せない児童がいて、そういう子のために、バディ役の児童が手助けしてくれることになっていたんです。授業でわからないことがあれば丁寧に説明してもらえたし、ノートをとるのに時間がかかってしまった時は、ゆっくり見せてもらったり。ずっと一緒に付きっ切りで面倒をみてもらいました」
出国時は考えてもいなかった
中学受験に挑戦すること
日本帰国の目途が立った小学5年生の頃、中学受験を意識し始めた。しかし、日本人が少ない地域なので、日系の塾は通える範囲にない。そのため、週2〜3回のペースで塾のオンライン授業を受けることにした。
「毎日の現地校、週1回の補習校と合わせて、課題や宿題は膨大。それと、通っていた補習校の仲間は私のように日本に帰る予定のある日本人ではなくて、現地に長く暮らす日系の人たちがほとんど。日本で中学受験する人なんていなくて……。同じように受験する友だちがいなくて、孤独な受験勉強のスタートになりました」
苦しい時間を乗り越えられたのは、家族や周囲の人たちのサポートと、一時帰国での体験だった。
「小6の夏休みに一時帰国して、学校見学に行きました。いくつか回った中で、今の学校が本当に楽しそうで、『絶対ここに通いたい!』となったんです。在校生の先輩たちはにこにこ挨拶してくれて、制服もかわいくて。また、塾の帰国生のための夏期講習にも参加しました。そこで受験仲間ができました。「一緒に受験を頑張ろう」と思える友だちができたことはものすごく大きくて、頑張る力になりました」
常に周囲が応援してくれた
だから、将来は人を助けたい
言語の壁や受験を通して苦労もしたが、もちろんアメリカでの生活はそれだけではない。
「ピッツバーグは本当に自然が多くて、日本にいたら見られないようなものがたくさんありました。家が森に近かったので、大きな鹿が庭に遊びにくることも。冬はスキーなどのウィンタースポーツを満喫しました。学校ではブラスバンドに参加して、サックスを演奏したおかげで、音楽が大好きになりました。サックスは今も習い事として続けていて、学校では軽音楽部に入っています」
日本ではできない体験を通して、大きく成長。英語力が身に付いたのはもちろん、多様な背景の友だちからは様々な文化を学び、視野を広げた。
「もともとは消極的な性格だったんですけど、アメリカ生活のおかげで積極的な人間になれたと思います。将来の夢はまだ固まっていませんが、人をサポートする仕事につきたいです。これまで海外生活や受験を通して、たくさんの人に助けてもらいました。両親はもちろん、現地校の先生や友だち、一時帰国をサポートしてくれた父の勤務先の方、今の学校の先生たちや友人など、数え切れません。ですから、私も将来大人になって、困っている人を助けていきたいと思います」
親への感謝
海外生活も帰国後も、両親には常に応援してもらっています。今でも理科、社会など一部の教科にハンデを感じることがありますが、勉強を教えてくれたり、身に付けた英語力を維持できるよう真剣に考えてくれています。勉強だけでなく、ちょっとした悩みまで何でも話せる家族。これからその恩返しをしていきたいと思います。
取材・文/本誌編集部、竹部伸[株式会社ニイモモクリエイト]