アメフトに出会って人生が一変。スポーツの分野で社会貢献をしたい
早稲田大学 1年生 D・Yさん(18歳)
※2023年5月インタビュー当時
渡航歴
時期 | 場所 | 学校 |
---|---|---|
12歳(G6・12月)~14歳(G8・6月) | アメリカ・テキサス州 | 現地校 |
14歳(G8・7月)~16歳(G10・9月) | アメリカ・イリノイ州(シカゴ) | 現地校 |
16歳(高1・9月)~ | 日本 | 私立高校→私立大学 |
スポーツを通して友だち作りが広がった
早稲田大学社会科学部に通うD・Yさんは、小6の冬から高1の秋までアメリカで生活を送った。渡米の際は、ワクワクする気持ちが強かったという。
「東京を離れる寂しさより、知らない場所に行くことのほうが楽しみでした。父の転勤で小1まで愛知県にいましたし、引越しにも抵抗がなかったです」
渡米後は、テキサスには日本人学校がなく現地校に進学。すると登校初日、思わぬ事態に直面する。
「学校から帰宅するとき、行き先の違うスクールバスに乗って知らないところで降りてしまったんです。グーグルマップで場所を確認して母に迎えに来てもらえましたけど、あのときは、『やばっ、帰れる!?』と、少しパニックになりました」
初めこそハプニングに見舞われたが、その後は現地の生活に親しめた。
「近所に同じ学年の日本人の男の子がいて。『学校のアメリカンフットボールチームのトライアウトを受けよう』とも誘ってくれました。日本ではサッカーをやっていましたがその現地校にはチームが無くて。ですのでわりと気軽な気持ちでアメフトを始めたのですが、その後の生活が一変しました」
アメフトが楽しくて、チームメイトには練習内容を聞くなど積極的に話しかけた。スポーツを通して交流が広がったという。
シカゴでも学校説明会で帰国後の学校に出会う
授業でも、持ち前の積極性を活かして現地に溶け込んでいった。
「英語の授業はESL(英語以外を母語とする生徒に向けた英語のクラス)でしたが、歴史や理科の授業は現地の生徒と一緒に受けたので、わからないときは周りに聞きました。そうやって英語に自信がなくても、とにかくたくさん話しかけているうちに、クラスでも友だちが増えていきました」
テキサスの生活にはすっかり慣れ親しんだ。しかし、滞在から2年も経たないうちに、今度はシカゴへ引っ越すことに。転校先の中学にはアメフトのチームがなかったため、現地のクラブチームに入って練習に励んだ。
「クラブチームは父が探してくれて入会しました。プレイ中に怪我をしたこともありましたが、完治までの間はチームの応援に力を注ぎました。そして中学卒業後は現地の高校でアメフトを続けました。アメリカには色々な人種の人が集まっていて、アジア人である僕も居心地が良かったです」
帰国したのはそのl年後。日本の高校の説明会がシカゴで行われ、そこでアメフトの名門・佼成学園高等学校の存在を知り、高1として2学期から帰国子女枠で編入することができた。
「それまでは、心配事を抱える経験はあまりなかったのですが、このときは初めて不安を抱きました。『日本の学校生活に馴染めるかな…』と。で、いざ入ってみたら……、男子校のノリがめっちゃ合いました(笑)。受験のときにお世話になった先生が頻繁に声をかけて下さったりして、それもありがたかったです」
アメフトを続けて、“最高”まで達したい
佼成学園高等学校では勉強にも部活にも熱心に取り組んだ。高2の秋からは、アメリカの大学への進学も視野に入れ、受験勉強を本格的に開始。そして、高3の冬にはアメフト部が全国優勝を果たし、高校日本一の座に輝く。その試合でD・Yさんは40ヤード以上の決勝キックを決め、勝利に大いに貢献した。
「あのときはチームだけでなく、応援してくれていた生徒も先生も皆で喜びを爆発させました。本当にいい思い出です」
高校時代、勉強にも力を注いだことが功を奏し、全国自己推薦入試で早稲田大学社会科学部に合格。このほかアメリカの大学4校にも合格した。アメフト部への入部が叶えば、今後アメリカの大学に進むことも考えている。
「今は、早稲田でアメフトができていてすごく楽しいです。どこにいようとアメフトを本気で続けて、自分が行ける最高のレベルまで達したい。そして将来的にはスポーツに関わる職に就いて、日本のアメフト人口を増やすなど、スポーツを通して社会貢献をしていきたいと思っています」
親への感謝
アメリカでの経験があるから、佼成学園高校と早稲田大学に進めて、今もアメフトに取り組めています。それから、子どもの頃からいろいろなスポーツができる環境にいて、母はいつもメンタル面を支えてくれ、父は学校やクラブチームの情報を集めて後押ししてくれました。これらのすべてに感謝しています。