保護者の海外赴任に伴って、海外で暮らしている子どもたち。海外滞在中は海外子女、帰国後は帰国子女と呼ばれる。
彼らが海外留学者と決定的に違うのは、本人の意思で海外に暮らしているわけではないということだ。また幼少期や思春期などの成長過程で経験するケースが多く、それがゆえに滞在中も帰国後も大きな葛藤が生まれる。
そこで本コラムでは、帰国経験者に自身の体験や我が子をサポートする中心的存在となる母親への思いについてお話を伺った。今回はルクセンブルグで暮らした経験を持つBさんだ。(女性。現在は社会人)
英語が全くわからない状態で渡欧、忘れ物をうまく伝えられず泣いたことも
父親のルクセンブルク赴任が決まったのはBさんが11歳、小学校6年生の時だった。当時、高校生だった双子の兄たちは日本に残り寮生活を送ることを決めたが、Bさんは父母とともにルクセンブルクに行くことになった。
ルクセンブルクの公用語はルクセンブルク語、ドイツ語、フランス語で、公立の学校では複数の言語を習うため、短期間での修得は大変だろうと、Bさんは英語だけで授業を行うインターナショナルスクールに通うことにした。とはいえ、英語を学んだことは一度もなかった。
「英語は現地で覚えたほうがよいという両親の判断で、英語が全くわからない状態で渡欧することになりました」
Bさんが通ったインターナショナルスクールは1学年1クラスのこじんまりした学校で、西ヨーロッパ諸国を中心に様々な国籍の生徒が在籍。日本人の生徒は各学年に1人いる程度だった。
「編入したての頃は、日常会話も授業で先生が話す言葉も理解できず苦労しました。お弁当を家に忘れた時、英語でどう言えばよいのかわからず泣いてしまったことがあります。
その時、自分が何と言ったのかよく覚えていませんが、おそらくLunchという単語が出て、やっと先生が理解してくれ、事務室で母に電話をかけさせてもらえたことを覚えています」
6年生に編入したBさんは、全体の授業の約半分の時間をESL(English as a second language)のクラスで英語を学び、体育や音楽など、英語力をあまり必要としない科目は通常のクラスに参加した。とはいえ、体育の授業では先生の指示がわからず、自分だけが他の生徒と違う動きをして恥ずかしかったとBさんは笑う。
「家に帰ると、母が学校からの通知や宿題、教科書に書いてある英文をすべて訳してくれました。また、スクールの先生に家庭教師を頼み、週に2~3回自宅で英語を習っていました」
大変なことは多かったが、得意科目もみつけた。算数は、数式を見れば問題が解ける。しかも授業では、日本なら低学年で習う足し算・引き算や、既に習った分数の計算を学んでいたため、すらすら問題を解くことができた。
また日本で6歳の時からピアノを習い、楽譜を読むことができたBさんは音楽の時間が楽しかったという。
「ピアノを習うために母がアメリカ人の講師を探してきてくれ、ピアノを続けることができました」
そして1年後、7年生になるころにはESLの授業は引き続き継続して受講するものの、すべての授業の聞き取りができるようになっていた。得意だった数学は、レベル別で上のクラスに入ることもできた。
日本の中学は驚きの連続、帰国生の多い高校でわかりあえる仲間と出会う
ルクセンブルグに滞在して3年目。8年生が終わる頃、父親のルクセンブルク赴任の延長が決まった。Bさんは「高校からは日本の学校に通いたい」と思い、両親と相談。母親と一緒に帰国することが決まった。
夏休みには一時帰国しBさんは進学塾の夏期講習に通い、日本の高校や受験勉強についての情報収集をした。
そして冬休みに本帰国。3学期から公立中学校に編入したが、学校生活でのカルチャーショックは大きかった。”積極的に発言する生徒は優等生”というインターナショナルスクールの雰囲気に慣れていたため、授業で手を挙げて発言する生徒がいないことに驚かされた。
体育の授業がある日は男女別の更衣室で着替えるのだが、Bさんがルクセンブルクのスクールでやっていたように何も気にせず制服のシャツを脱いだところ、同級生が慌てて「日本では人前で下着を見せないように、こういうふうに着替えるの」と制服で覆いながら着替える方法を教えてくれたという。
初めて受けた期末テストは全くできなかったが、授業を聞いていて困ることは全くなかった。
「今思えば、ルクセンブルクで日本の通信教育を受けていたこと、また日本から送られてくる日本の教科書を読んだり、日本人の子ども同士で本を回し読みするなど、日本語に触れる機会が多かったことが、役に立ったのではないでしょうか」とBさんは回想する。
放課後は進学塾に通い、数学と国語の受験勉強をした。何校かの私立・公立高校を帰国生枠で受験。入試では日本語と英語、両方の作文と面接による試験が課された。
ルクセンブルクのスクールは作文の指導に力を入れていたため、Bさんは英語で文章を書くことや自分の意見をまとめることには慣れていた。結果、受験した学校全てに合格。英語や国際教育を重視し、帰国生を数多く受け入れる公立高校への進学を決めた。
「入学した高校は帰国生が多く、自分の気持ちを理解してくれる生徒がまわりにいることが本当にうれしかったです」とBさん。
ルクセンブルクのスクールでは言いたいこと全てを英語で話せていたわけではなかったため、高校で自分の思いを日本語で伝えられることの喜びを改めて実感したという。また高校での充実した英語指導によって、それまで身に付けた英語力をキープすることができ、高校1年次には英検準一級を取得している。
Bさんは帰国後もピアノを続け、高校卒業後は、私立大学の音楽専攻科に進学した。だが、音楽の実技科目が多く英語に触れる機会がほとんどない大学生活を送るなか、ある日『英語がすぐに出てこなくなっている自分』に気づいたという。
「せっかく苦労して身に付けた英語力が落ちてしまってはもったいない」
そんな思いから、NHKラジオの英語番組などを利用して独学で勉強。英語力を取り戻すことができた。大学卒業後は大手音楽関連会社が運営する英会話スクールに就職、英語講師となった。
現在、Bさんは3人の子どもを育てる傍ら、幼稚園などで英語講師として活躍する。他の生徒と一緒に我が子を自分のレッスンに参加させたこともあり、今でも自宅では指導の練習がてら、子どもたちに英語で話しかけているという。
「子どもたちが、英語を好きになってくれたことが何より」と話すBさんは、海外での生活をこう振り返る。
「ルクセンブルクでは、放課後の活動としてバスケットボールをやっていて、周辺国のインターナショナルスクールが参加する大会では、他のスクールに通う日本人生徒と交流する機会がありました。なかには日本人が多いため、日本人とばかり過ごしているのかあまり英語が身に付いていない生徒もいました。
せっかく長期間を海外で過ごすのですから、少し苦労してでも外国人の生徒たちと積極的に関わり、英語でコミュニケーションできるようになったほうが、将来、必ず役立つと思います」
(取材/文:橘晶子)