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インタビュー|別所哲也さん「Who are you?」という問いに、まっすぐ答えられる自分でありたい

1990年の日米合作映画『クライシス2050』でのハリウッドデビューを皮切りに、日本の映画界を盛り上げてきた別所哲也さん。今回はそんな別所さんの海外経験を通しての気づきや子育てのポリシーについて、お話を伺いました。

学生時代は、「alive」な英語に触れてみたかった

小さい頃から、
違う国の文化に触れてみたい、
交流してみたいという気持ちがあった

–まずは別所哲也さんの子ども時代のお話からお聞かせください。

別所哲也さん(以下、別所) 実家は静岡県の田舎町です。小学生まではすごく大人しくて引っ込み思案な、静かな子。それが中・高とバレーボールを始めたことで、自分から率先して動く人間になりました。

–当時はどんな夢をお持ちでしたか?

別所 少なくとも芸能界に進もうとは考えていませんでしたね。ただ、母の親戚がサンフランシスコにいて、時々絵葉書をもらったりしていたので、漠然と海の向こうの世界に興味を持っていました。中学生の時にホームステイをしたいと思ったこともありましたよ。

–高校をご卒業後、『慶應義塾大学法学部法律学科』に進学していらっしゃいますよね。上京しようと思った理由は?

別所 社会人になる前に東京で一人暮らしをすれば独り立ちできる、という思い込みがあったんです。法律の勉強をしようと思ったのは、社会のルールを学んでみたいと思ったから。

といっても、学生時代は勉強以上にサークル活動にかなり熱を入れていました。「ESS」(English Speaking Society)という、英会話サークルです。慶應のESSはドラマ、ディベート、スピーチ、ディスカッションの4セクションに分かれていたのですが、僕は体を動かしたり、何か表現するのが好きだったので、ドラマセクション一択でしたね。他のものもすごく面白いんですけど、社会的な問題を議論するのは学部の授業でもやっていたので。それよりも感情を動かす、“alive”な英語に触れてみたかったんです。

–ではサークルがきっかけで、芸能界の世界へ?

別所 そうというわけでもないんですけれど、大学3年生の頃、僕もまだちょっとしたモラトリアムにいて(笑)。企業の肩書きだけじゃなくて、自分の表現で人の心を動かしたりできる仕事に就きたいと、青臭くも思っていたんです。それで、やっぱり後悔をするくらいならちゃんと一度チャレンジしたいと思って、1、2年で芽が出なければ諦めると決めて、俳優の道に進むことにしました。

ハリウッドで学んだ、日本人に必要な姿勢

大好きだったはずの英語の挫折。
それでも、ハリウッドで得た新しい価値観は、
僕に大きなものをもたらしてくれた

–大学ご卒業後はどのような活動をされていたのでしょう。

別所 まずは無名で舞台に立ったり、テレビに出ることからのスタートでした。1年くらい活動した頃、ハリウッドの日米合作映画で宇宙飛行士役の募集があって、これはチャンスだと挑戦してみたんです。第5次審査くらいまでかけて、ようやく合格。アメリカ行きが決まりました。

–当時はどのような心境でしたか?

別所 よく驚かれるんですけれど、実はそれが初の海外渡航だったんです。それまでは海外旅行にも行ったことがなくて。それでも、すごくワクワクはしていましたよ。けれど現実は甘くなくて、結局俳優のオーディションに合格しても「哲也の英語はいろんなイントネーションが混ざっている」と指摘されてダイアログ・コーチを受けることからスタート。英語は大好きでしたが、挫折も味わいました。

それでも、ハリウッドに行ったからこその気づきはたくさんありました。例えば、「生きる」ということには、もっとファイティングポーズを取るくらいの気持ちが必要なんだということです。当時23歳だった僕は、ドンと分厚い英語の契約書を渡されて「全部自分で読んで、納得したらサインをして」と言われました。その時、「自分の行動には責任を持たねばならない」という感覚が植えつけられました。

多様なカルチャーでこそ気づけることがある

「自分が何者なのか」
「自分がどんなことに価値を
置いているのか」。それを理解して、
自信を持つことに意味がある

–帰国後も新たなカルチャーショックがあったのではないでしょうか。

別所 そうですね。一度海外経験をした人なら誰しも感じたことがあるかもしれませんが、良くも悪くも「アメリカならこうだった、でも日本は……」と見比べてしまうんです。

それに、アメリカと日本では「価値づけ」の方法がまったく違います。アメリカにいた時に、現地の人に「Who are you?」と問われたことがあったのですが、あちらでは「僕が何者なのか」「僕がどのような選択をして生きているのか」とよく問われて、その答えが人の価値となります。一方で、日本では「ハリウッドに行った男」「カンヌで評価された作品」と、誰かの価値づけで役者や作品の価値が決まりがちです。

そうしたギャップを感じると、最終的に結局日本にもアメリカにも帰属できない自分が残ってしまう。これをアイデンティティクライシスと言うそうなのですが、やっぱり自分を「浦島太郎だな」と思うことはありました。

それでも、僕はあちらで学んだ個人の価値観を大切にする感覚を映画の世界でも大切にしたくて。無名でもなんでも、個人が「これ面白いな」と思う作品の可能性にフォーカスできるプラットフォームをつくりたいと思いました。そこで『ショートショートフィルムフェスティバル』という映画祭を立ち上げるに至りました。

–別所さんの子育て論についてもお聞かせください。2009年に女の子がお生まれになっていますが、ご家庭ではどのように教育をされていますか?

別所 生まれる前から日系4世のアメリカ人の妻とは「世界の物差しで物事を見極められて、その中で自分のアイデンティティを持てる子どもに育てよう」と話していました。ですから、僕がアメリカと日本という2つのカルチャーを体験したように、彼女にもいろいろな文化や価値観を知ってほしいと日々子育てに向き合っています。家庭内では妻が英語で、僕は日本語で話すようにしたり、3歳の時には世界一周旅行にも連れて行きました。

–子育てにもとても積極的なのですね。

別所 今はスマホをいじっていればその中の情報だけで満足できてしまう時代でしょう。だからこそ、リアルな体験をしてほしい。食事ひとつとっても、いろいろな地域のものを食べたり、常に多様性に接してほしいと思っています。

ただ、僕は「郷に入っては郷に従え」の感覚もすごく大切だと思っています。このインタビューをご覧の読者の方々も、今海外で子育てをされていらっしゃるかもしれませんが、その場所で、その瞬間に得られるユニークな体験は何にも変えがたいものです。僕も今8歳の娘がいて、彼女はインターナショナルスクールに通わせているんですが、彼女が望めば海外留学もいいし、それから日本に帰って来てもいいでしょう。その時、僕と同じようにアイデンティティクライシスに陥るかもしれない。けれど、多感な時期に自分がどういうルーツでどんな人物なのかを環境やコミュニティから感じる。そんな体験こそ唯一無二のものなのではないでしょうか。

別所哲也さんの1問1答×10

❶ 好きな言葉は?
「If you go fast, go alone. If you go further, go together.」
★よく口にするよう心掛けている言葉です

❷ 嫌いな言葉は?
「できません・やれません」
★やってもいないのに「できません」はご法度

❸ ウキウキする瞬間は?
「知らないことに触れる時」
★最新ガジェットとの出会いはいつも新鮮

❹ げんなりする瞬間は?
「美味しいものが食べられない時」
★食いしん坊なので(笑)

❺ 人生で一番ピンチを感じた時は?
「イーストLAで車がガス欠」
★本当に路頭に迷いました

❻ 人生で一番チャンスを感じた時は?
「映画祭のアイディアを思いついた時」
★リスク度返しで、とにかく「やりたい」と思いました

❼ 朝起きて最初にすることは?
「大声で歌う」
★こうすると目が覚めます!

❽ 寝る直前にすることは?
「ゼリーかアイスを食べる」
★娘にバレて、「健康的じゃない」って
怒られるんですけどね(笑)

❾ 10年後どうしていたい?
「好きなことを好きなだけ」
★歳を取ったからそろそろ落ち着こうとか、
画一的にはなりたくないかな

❿ マイブームは?
「コーヒー」
★サードウェーブからコンビニまで飲み比べます

プロフィール

別所哲也

別所哲也(べっしょてつや)さん

1965年、静岡県生まれ。『静岡県立藤枝東高校』を卒業後、『慶應義塾大学法学部法律学科』に進学。その後23歳で渡米し、ハリウッドデビューを果たす。帰国後も映画や舞台など多方面で活躍。1999年からはショートフィルム映画祭『ショートショートフィルムフェスティバル』を主宰している。

撮影/酒井俊春(SHAKE PHOTOGRAPHIC)

※2018年インタビュー

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